2013年12月29日日曜日

続 NOËL@CONNELLES コネルでノエル

ようやくノエルリポートの最終回、食事編です。
私達は偏食があるので事前にノエルのスペシャル・メニューをメールで送って貰っていたのですが、これがまるっきりクラシックで、思いっきりスタンダードなノエル料理の定番メニューだったので、食べられない物は無いけれどあまり期待はしていませんでした。
今回は珍しく星無しレストランではあるし、値段も高くないし、ノエルだし、ま、いいか、という乗りで一応オシャレだけしてダイニングルームに降りていきました。
バーからはみ出して玄関ホールまでアペリティフを楽しむ人々で賑わっていて、一気にノエルモードに突入です。
とても良い席に案内され、待つほどもなくカクテル・ド・ノエルとアミューズが運ばれ、私達の酒宴が和やかに始まったのでした。いったい何種類のお酒を飲んだことやら…。
お料理は、予想以上でも以下でもなかったけれど、おまかせコースのお酒は意外にも当たりでした。ブルゴーニュ一辺倒の私達なのに、ブルゴーニュは一切出なかったにもかかわらず満足しました。
そして、メートルドテル(RITZに長くいたという初老の紳士)の完璧なサーヴィスが何よりものご馳走でした。

バカラの大きなシャンデリアが煌くダイニングルーム

ノエルのテーブルセッティングが可愛かった。現代物だけれどバカラのアプリックはやはり素敵。
ペール・ノエル(サンタクロース)の髭は自前だった。

バニラ風味のカリフラワーのポタージュはなかなかオツな味だった。
一切れ食べてしまってから撮影したスモークサーモン(ミクロなブリニとビーツの葉のサラダ添え)も美味しかった。

鴨のフォア・グラ、 パンデピスのカリカリ焼き添え。 
スズキのフィレ、ビスク・ド・オマールのソース、クリームリゾット添え。何故か皮が下に。今一だった。

七面鳥の巻物、茸と栗と冬瓜添え。一切れで降参。 正統派ビュッシュ・ド・ノエル。
可愛く出来ていたけれどバタークリームはきつく、一口でギブアップ。

一夜明けて朝のダイニングルーム。ノエルの昼食も予約で満席とのことで、既にテーブルが整えられて。

セーヌの上のベランダ席。朝食はここに席を作ってくれた。美しい季節には気持ちが良さそう。

Moulin de ConnellesのHPはこちらからどうぞ。ヴァーチャル・ヴィジットでご覧下さい。

2013年12月28日土曜日

NOËL@CONNELLES コネルでノエル

昨日の続きで、ノエルのミニ旅行のリポートです。
掲載したい写真が沢山あり過ぎて、どれも捨て難く、セレクトするのに一苦労しました。
というのも、MOULIN DE CONNELLES ムラン・ド・コネル(コネルの水車小屋)は予想以上に素敵な所だったのです。
最悪のお天気だったにもかかわらず、とても良いノエルを過ごせたのは、このホテルが気に入ったからです。
何よりもまずロケーションが素晴らしい!セーヌ河畔(分流)から小さな中ノ島に跨った橋状の館なのです。
ちょうどロワール河のシュノンソー城のミニチュア版のようです。
アングロ・ノルマン様式と俗に呼ばれる英国風が入ったノルマンディー式マノワールといった感じの19世紀末に建てられた大きな館、というよりむしろ小さなお城です。
3ヘクタールほどの島もこのホテルが所有していて、夏は島(庭)でセーヌの流れを眺めながら食事をしたり、ボートで川遊びをしたり出来るようになっています。
次に気に入ったのは、ここの女主人(多分)の接客姿勢。これぞまさに『お・も・て・な・し』と言いたい、真心のこもった完璧なもてなしには感動しました。やたらに謙ってはおらず、むしろ古くからの友人に対するような親しみさえ感じさせながら、礼儀正しく、客の望むことは何でも適えようという健気さ、それがとても自然で感じが良いのです。
彼女はポール・ボキューズの学校を出た人らしいけれど、いくら名門のホテル学校を出ても、客をまた来ようという気にさせるホスピタリティは誰でも身に付けられるものではないでしょう。もっと高級で格も上の有名ホテルで、この穏和な性格の私(?)を怒鳴らせた接客をされた経験もあります。
夫も『珍しいね、あんな感じの良い人』としきりと感心し、あの人に会いにまた行きたいそうです。

ホテル正面玄関側 芝生から右が陸

裏側 島(庭)から撮影 右端の塔が私達の部屋の風呂

玄関ホール バカラのシャンデリアが綺麗

部屋からの眺め 左が寝室(表側)の窓 、右がサロン(裏側)の窓から撮影

サロン 左は夕方、右は朝撮影

塔の中にスッポリ入ったジャクジ付き浴槽とその上の高い天井。 

部屋は、寝室は小さいけれどサロンもあるジュニア・スイート。窓は小さかったけれどセーヌ川の上流側も下流側も眺められたし、何よりもセーヌの上でお風呂に入ったり、寝たりしたのは初体験で面白かったです。バスルームは広く、ジャクジ付きバスタブとシャワー室が別になっていて、バスタブの上が塔の尖がり屋根の内側になっているのが不思議な気分でした。
ノエルのディナーの様子は、また次回レポートします。

2013年12月26日木曜日

JOYEUX NOËL! メリー・クリスマス!

今まさに、きよしこの夜クリスマスです。(日本時間では既に26日ですけど)
昨日のイブは、ノルマンディーのルアンに近いセーヌ河畔のマノワールで過ごしました。
途中寄り道をしてLES ANDELYSという町で降り、ノートル・ダム・デ・ザンドリという教会にお参り(というより見物)しました。
ノートル・ダムつまり聖母マリアの教会ですからノエルに相応しい聖地でもあり、とてもステンドグラスが美しかったので、写真をご覧にいれたいと思います。
読者の皆様へのクリスマスプレゼントです。(マノワールのお話はまた後日)
メリー・クリスマス!

1215年から1570年の長きに渡って完成した教会の全容

入口の聖母子像(19世紀)  正面

お馴染みの聖テレーズ ステンドグラス(16世紀)

教会内に作られたクレッシュ(キリスト降誕場面を表す馬小屋と人形一式)。何故か肝心のキリストが消えていた。

キリスト降誕場面のステンドグラス

2013年12月22日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その21-

クリスマスを目前に控えて天気が下り坂、今朝は灰色の世界です。
今年もノルマンディーでノエルを迎える予定なのに、天気予報では雨。
BOKUがこないだから前脚を痛めてやっと歩いているし…。憂鬱な日曜日です。

今年の2月から始めたアンティーク・ガラス豆百科が予想以上に長引いております。
ガラスの歴史だけでも年内に終らせようと頑張っていたのですが、やっと最終回に漕ぎ着けました。ずっと読んで下さった方(もしいらしたら)にはご迷惑をおかけ致しました。

【アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス】パット・ド・ヴェールの作家達

アールヌーヴォー、アールデコのガラスといえば忘れてならない(というより先ず頭に浮かぶ人が多いかも知れない)のがパット・ド・ヴェール作品です。
Pâte de verre パット・ド・ヴェールとは、本来ガラスのペースト、つまりガラスの練り物といった意味のフランス語です。
一般に、アールヌーヴォー期の不透明な色ガラス作品全般を指す呼称であるかのように誤解され、フランス本国のアンティック業界ですら誤用が定着している感がありますが、『パット・ド・ヴェール』とは一つの限定されたガラス工芸上の技法またはジャンルを指します。
色々な面倒なプロセスを要する手間のかかる技法で、アーティストによってそれぞれ秘法があったようですが、基本的には、色ガラスの粉末を糊で練って鋳型に充填し、型のまま焼き上げて中のガラスを溶解させて成形する技法ということになります。
古代メソポタミアで既に使われていた技法で、その後完全に廃れていたのが1880年代になってフランスの彫刻家アンリ・クロによって再発見もしくは再発明されたといわれます。
どのような形、色、模様でも自由自在に作ることができる上に、加熱されて溶け合ったガラスが自然に創り出す複雑で微妙な色彩やテクスチャーなどのニュアンスを想像しながらも、焼き上げて初めて得られるという偶然性など、陶芸や彫刻にも通ずる要素を持つこの技法は作家の創造力を掻き立てるものであったことと思います。
この時代のガラス工芸界の中で最も創造的で芸術的な作家および作品が生み出されたジャンルであるともいえましょう。

Henry CROS アンリ・クロ (1840-1907)
南仏のナルボンヌに生まれ、11歳から一家でパリに移り、パリ郊外のセーヴルで亡くなる。
親兄弟は学者、医者、発明家でありながら芸術家という非常に知的な家庭環境に育つ。パリの国立美術学校で彫刻と絵画をアカデミックな大家の下で学び、卒業後も自らの芸術を究めるために研鑽を積む。研究者肌な彼は、ルーブル美術館などで古代美術を研究しながら蝋を用いた着色彫刻を試行錯誤するうちに、2000年もの間忘れ去られていたパット・ド・ヴェール技法を再発見し、蝋より恒久的なこのガラスによる彫刻を創案するに至る。
1882年から試作を始め、1889年に公開された彼のパット・ド・ヴェール作品群は注目を浴び、非常な高評を得る。1892年からはセーヴル国立製磁工場に彼専用のアトリエと窯が提供され、ここで生涯創作活動に没頭し、数々の名作を残した。彼自身が名付けた『パット・ド・ヴェール』技法は多くの工芸家を触発し、一つのジャンルへと成長した。

Albert DAMMOUSE アルベール・ダムーズ(1848-1926)
彫刻家で陶磁器装飾家であったピエール・アドルフ・ダムーズの息子としてパリに生まれ、彫刻家および陶芸家としてセーヴルにアトリエを持ち、セーヴルに没す。
父のみならず画家であった弟も含めて陶芸一家として知られる。国立装飾美術学校と国立美術学校に学んだ後、彫刻家としてデビューする。1871年にセーブルに自分のアトリエを開き、死ぬまでこのアトリエで制作活動を続けた。
陶磁器の名窯POUYAT、HAVILANDや画家のブラックモンとのコラボレーションにより、数々の陶芸の名作を残し、一流の陶芸家として作品はオルセー他美術館に収蔵されている。
既に陶芸家として名を馳せていたダムーズがパット・ド・ヴェール作品を作り始めたのは1897年からで、1898年のサロン(展覧会)には動植物をモティーフにした繊細なガラス器を出品した。陶芸の技法を応用し、七宝に似たテクニックも駆使したダムーズ独自のガラス工芸は彼自身によってパット・デマイユと名付けられ、極薄の陶磁器を想わせる一方、陶磁器には出せないガラスならではの透明感のある色彩を有し、最も完成度の高いパット・ド・ヴェール作品と称賛される。1910年に発表された花形のクップなど、その精緻を極めた本物と見紛うほどの繊細なテクスチャーと造形、洗練された美しい色彩、完璧な表現力には驚くばかりである。

Georges DESPRET ジョルジュ・デプレ(1862-1952)
ベルギーの名家に生まれる。父は商工業界及び財界の重要人物であったが、彼は子供の頃から北フランスでガラス工場を経営する叔父に後継者として望まれ、迷わずその進路で準備を整え、叔父亡き後22歳で予定通り経営者となる。一族のパワフルな血を受け継ぎ、彼もまたエンジニア、研究者としてのみならず事業家としても腕をふるい、特殊ガラスを製作する大工場へと事業を大きく発展させ、父と同じように商工業界、財界のリーダー的存在となる。
事業や名誉職の傍ら、工場内に設けた自分のアトリエで、ローマ時代のパット・ド・ヴェールの秘密を研究し続け、アンリ・クロとほぼ同じ頃ついに技法を会得し、人物像などの作品を完成させる。彼は何人かの画家や彫刻家とのコラボレーションで多数のパット・ド・ヴェール作品を制作し、1900年のパリ万博にも作品を出品し、好評を博す。
二度の世界大戦中に彼の工場、アトリエ、彼の作品を収蔵していた美術館などが爆撃を受け、多くの作品が破壊されたため、同時代の他のガラスの大家ほどデプレの名は後世では知られていない、というよりも長いこと忘れられてさえいたが、卓越した技術とガラスをたっぷり使ったダイナミックな作品を残している。
清里北澤美術館(2012年に閉館)の入口に展示されていたラ・ヴァーグ(波)という素晴らしい大作は有名である。

Amalric WALTER アマルリック・ワルター(1870-1959)
セーヴルに生まれ、15歳から祖父や父が働いていたセーヴル国立製磁工場附属の陶芸学校に学ぶ。ここで陶芸の全ての技術や絵付けなどを実習した後、兵役を終えた1893年に正式にセーヴル陶磁器装飾家として雇われ、展覧会などにも出品し、成果を挙げる。
折しも同じセーヴルにアトリエを持つアンリ・クロがパット・ド・ヴェール作品で世の注目を浴びていた時代でもあり、ワルターもこの技法に興味を持ち研究を重ねる。
1903年に陶芸学校の師であったガブリエル・レヴィとの共同制作で初めてパット・ド・ヴェール作品をパリの美術展に出品する。これがアントナン・ドームの目に留まり、レヴィと共にナンシーのドーム社に招聘され1904年からドームの工場でパット・ド・ヴェール作品を専門に制作する。間もなくレヴィはドームを去るが、ワルターは1914年まで残り、ドームのチーフデザイナーであった画家アンリ・ベルジェ他のアーティストとの合作で多くの傑作を生んだ。
第一次大戦後、ドームから独立してナンシーに自分の工房を持ち、色々な画家や彫刻家の協力を得てパット・ド・ヴェール作品を制作し、これらは高級工芸品店で売られた。
彼の作品は粒子の細かいガラス粉を使った為良く溶けて滑らかな肌、色の美しさが際立っており、蟹、海老、カメレオン、カエル、小鳥、蝶などの小動物をテーマにした小品やタナグラなどの小彫像が多い。

François DECORCHEMONT フランソワ・デコルシュモン(1880-1971)
ノルマンディー地方のコンシュ・アン・ウッシュに生まれ、この地に没す。アーティストやアルチザンの家系で、父はパリの国立装飾美術学校の教師で彫刻家。彼自身も国立装飾美術学校に学んだ後、絵画、彫刻に才能を発揮する一方陶芸にも手を染める。陶芸に限界を感じ落ち込んでいた1902年頃、父の薦めもあってパット・ド・ヴェールの研究を始める。そしてついに彼は自分の目指す芸術を表現するための新しい手段を手に入れ、1903年からパット・ド・ヴェール作品を発表し始め、生涯にわたって技法の開発を研究しながら制作を続けた。
彼の作品を最も特徴づけたのは独自に開発した素材パット・ド・クリスタルである。また、蝋型鋳造、二度焼き、表面の研磨など様々なテクニックを独創し、これらを駆使して非常にオリジナルな作品を多数残した。
すぐれたデッサン力、芸術性、テクニックを持つ上に研究熱心な努力家であったデコルシュモンは、発想は勿論、素材作りから仕上げまで全て自分の手で行った稀有な作家の一人である。
昆虫などをモティーフとしたアール・ヌーヴォー的な作品から、典型的なアール・デコ作品、宗教的な題材のステンドグラスまで、幅広く、息の長い制作活動をした偉大なアーティストである。

Gabriel ARGY-ROUSSEAU ガブリエル・アルジー・ルソー(1885-1953)
シャルトルに近い小さな村メレ・ル・ヴィダムの農家に生まれ、パリに没す。田園風景などを描くのが得意な夢見がちな少年であったが、同時に化学や物理も好きで成績優秀な彼は、奨学金を得てパリのエコール・ブルゲ(現在の電子電気工学技術高等学院)に進学する。その後セーヴルの国立陶芸学校にも入学し、アンリ・クロの息子のジャン・クロ等を学友に陶芸技術を学ぶ。技術者としての資格を取得して卒業後、歯科用セラミックの製作所に勤めながらパット・ド・ヴェールの研究を個人的に進める。
1910年代には自分のアトリエを開き、1914年からG.ARGY-ROUSSEAUのサインでパット・ド・ヴェール作品を発表し始める。因みに彼の本名はJoseph-Gabriel ROUSSEAUであり、ARGYは1913年に結婚した妻の姓ARGYRIADESの頭4文字を取ったものである。第一次大戦中は電気関係の技術者、発明家として国の為に働き、いくつかの特許を取っているが、アーティストとしては休業せざるを得なかった。
終戦と同時にガラス作家としての活動を再開し、あらゆる展覧会に出品し名を挙げる。1921年には『Les Pâtes de verre d'Argy-Rousseau』という名で会社を設立し、50人もの職人を雇って量産し、事業は発展を遂げたが、1929年の大恐慌により倒産。その後細々と小さなアトリエで制作を続けるも1933年以降は作品の記録が皆無である。
彼のパット・ド・ヴェールは、エンジニアらしく色ガラスの粉末に金属酸化物を混ぜて発色させる手法で色調の幅が広く、光を透した時の色彩が特に美しく、ランプシェードなどに秀作が多い。彼の作品は、古代をテーマとしたモティーフが多く見られ、非常にデザイン的で典型的なアール・デコ様式でありながら、優しさ、素朴さ、可愛らしさがあり個性的である。

左から Walter 小物入れ『蟹』『ホップ』  Cros 花器『パストラル』  Décorchemont 花器『5匹のスカラベ』

Dammouse クップ2点  Argy-Rousseau 花器『パピルス』 Despret タナグラ『団扇を持つ女性像』

Décorchemont ステンドグラスのディテール (左)1933年 (右)1950年代

 

2013年12月11日水曜日

もうすぐクリスマス

今年は、特に最近、ブログの更新をさぼり過ぎております。
特に忙しかった訳でもなく、書くことが無かった訳でもないのに、何故か怠け癖が付いてしまったようです。
自分で決めたことが出来ない自分が、情けなくなります。一事が万事、ダイエットも然りです。
来年こそは自分を裏切らないこと、自分に厳しくすることを目標にして、テキパキと暮らしたいと思う年の瀬です。
なんて、我にもなく説教じみてしまいましたが、実は気分はどちらかというとルンルン(って死語?)なのです。
だって、もうすぐノエル、そしてお正月なんですもの。自分に厳しくするのは来年からですよ~。

今年のシャンゼリゼのイルミネーションはどうたらこうたら、と何かに書いてあったので写真を撮らなくっちゃと張り切って出かけてみたのですが…、なんだ去年と同じじゃないの。
モンパルナスのお医者さん(夫の主治医)の帰りに、渋滞の中をわざわざ行ったのに、ロンポワンの噴水のところも、シャンゼリゼ大通りも去年と全く変わってませんでした。
この頃は専ら私が運転手なので、今回は夫が車から降りて撮影したのだけれど、カメラが同じだし、スポットも同じなので、写真も殆ど去年と同じで、ガッカリ。
でも、せっかく撮って来たので見てやって下さいまし、お代は頂きませんから。

ロンポワン・デ・シャンゼリゼからコンコルド方面を望む

振り返って凱旋門を望む

ロンポワンの6つの噴水が全てこれ

噴水の後のサパン・ド・ノエルが森のよう

真っ赤なサパンとメインのイルミネーションのディテール。

こうやって並べてみると、実に見事にトリコロール。さすがフランス、やっぱり美しいですねぇ。


2013年11月22日金曜日

Le Beaujolais Nouveau est arrivé! ボージョレー・ヌーヴォー解禁!

日本はパリより8時間も早いですから『何を今更...』と言われるかも知れませんが、きょうはボージョレー・ヌーヴォーの解禁日で、普通のフランス人は今頃(夜8時前です)あちらこちらで乾杯しているはずです。
私達夫婦は、3年ほど前から基本的に昼食をメインにしているので、きょうのお昼にもうやっちゃいました。
ウチの近所には酒屋など無く、もっぱらスーパーマーケットが我家の御用達なのですが、地域柄かあまり種類も豊富ではないし、ましてGEORGES DUBOEUFなんて置いてません。
遠くまで買いに行っている時間が無かったので、有り合わせを取り合えず何本か買ってまいりました。
だいたい、ボージョレー・ヌーヴォーのラベルは極シンプルか派手かのどちらかですが、きょう開けたのはLe Chat Rouge(赤猫)印の可愛いラベルのVILLAGEでした。
色は濃いスミレ色(時にガーネット色)で、トロリとして喉越しが良く、甘口。『ま、こんなもんでしょボージョレー・ヌーヴォーは』って感じ。
年中行事のひとつというか、慣習というか、季節の節目みたいなものですね。

グラスはラリックの"フォンテーヌブロー”を試してみましたが、これは、なかなかよろしいです。
口当たりがとても良いのです。チューリップ型に開いた曲線が唇に心地よくフィットして、ワインが滑らかに、しとやかに、程好い加減で口中に流れ込む感じです。
唇の形にもよるのでしょうが、私は不作法にも口とグラスの隙間から液体をこぼす事が時々あるのですが、このグラスならその心配もありません。
ラリックはデザイン重視であまり実用的ではないような気がしていたけれど偏見だったかも、と思ったのでした。

赤猫印のボージョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォー。可愛い過ぎ!

相変わらず賑やかなウチの食卓。ラリックのグラスが美しい…









2013年10月20日日曜日

卓上に咲いた花 -或る朝の情景-

最近どういう訳か、花瓶が続々集まってきて、テーブルや棚が混みあっております。
花が沢山生けられる太っ腹な花瓶、バラ一輪がやっと挿せるスリムな一輪挿し、短く切ったお花を活けたり茶入れにしたりする小さなもの、花を生けずにそのまま飾って眺めたいもの、等々。
意識的に探して買い集めているつもりはないのですが、勝手に寄ってくるのです。
そうした花器達はおしなべて花を生けて欲しそうではなく、自分が花であるかのようにテーブルの上や棚の上に飾られたそうに見えるので、ストック部屋にしまっておく訳にもいかず、それなりの場所を探してあげないといけません。
たまたま庭で切ったバラが一輪と近くのレストランで貰ったバラが一輪あったので、バカラとガレの一輪挿しに挿してみました。
なかなか良い感じです。我家の食卓にはランプ類の花が常に咲いているので、あまり目立ちませんが、然るべき所に飾ったら素敵でしょうね。

 庭のバラをバカラ(左)に、レストランで貰ったバラをガレ(右)に、真ん中は昨日来たばかりの朝顔風オパリーヌの一輪挿し

薄日が射した朝の卓上庭園(?)。ちょっと賑やか過ぎ。

2013年10月12日土曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その20-

日本は夏に逆戻りしたような暑さだとか…。もう暑いのはウンザリという人も多いことでしょう。
パリは秋というより冬が来てしまったかのように寒いです。
我家では暖房を入れておりますし、散歩の時はダウンジャケットです。
秋は骨董市が多く、アンティック姉妹社Parisのスタッフ(私と夫)はお宝探しに出かけたり、発掘品をHP上にご紹介するための作業などで、けっこう忙しくしておりました。と、またブログをサボっていた言い訳を自分にしております。

【アール・デコのガラス】1910年代から1930年代まで 《フランスの主な作家達 Ⅱ》

Marcel GOUPY マルセル・グピー(1886-1954)
パリ国立装飾美術学校出身のグピーは絵画、陶芸、建築、彫金、そしてガラス装飾と何でもこなすマルチ・アーティストとして知られ、1919年からパリのオペラ通りに店を構える有名な高級工芸品を扱うギャラリーGEO ROUARDのお抱えアーティストとして、エナメル彩ガラス作品を発表し続け、1929年以降はこのギャラリーのアート・ディレクターを1954年(没年)まで務めた。
グピーのエナメル彩ガラスの特徴は、アールデコ的にデザイン化された絵柄や模様が美しい色彩でくっきりと鮮やかに施され、非常にスタイリッシュであることだ。こういった表現を可能にする技法も工夫されたのもので、焼き戻した時に色が流れないように金や煤でアウトラインを引いたり、表面のエナメルの色が混じることなく、しかも奥行を出すためにガラス器の内側からもアエログラフ(エアブラシ)でエナメル彩を施したり独自のテクニックが駆使されている。
早くから美術館に作品が買い上げられ、アールデコ期のガラス装飾家として第一人者と認められた作家だけに作品は高価で、あまり市場に出回らない。

Georges CHEVALIER ジョルジュ・シュヴァリエ(1894-1987)
パリ郊外のヴィトリー・シュル・セーヌに生まれる。パリ国立装飾美術学校在学中の1912年より先輩デザイナー、モーリス・デュフレーヌ(同学卒業者で後にギャラリー・ラファイエットのアートディレクターを務めた有名デザイナー)のアトリエに呼ばれ、ブルジョア階級の為のテキスタイル、絨毯、陶器、刺繍、室内装飾などのデザインをする。
シュヴァリエのエレガントで渋く、伝統を踏まえながらもモダンな感性はデュフレーヌの影響と見られる。
卒業後1916年よりバカラに入り、1970年代までの長期に渡り専属デザイナーとして活躍する。1925年のアール・デコ博の折には、ガラス製品のデザインのみならず、Baccarat Chritofleのパヴィリオンの外装、内装デザインも手がけた。
グラス類、花器、動物の彫刻、香水瓶、アクセサリーなど、あらゆるジャンルのバカラ製品をデザインし続け、バカラの伝統を守りつつモダニズムを反映させ、20世紀のバカラのフォルムや装飾スタイルを豊かにした功労者と称えられる。
シュヴァリエのデザインは、非常にアールデコ的でありながら無機質な感じが全くなく、優しく、夢があり、生命感が溢れ、音楽が感じられる。

Degué  (Cristallerie de Compiègne)  ドゥゲ(クリスタルリー・ド・コンピエーニュ)
ドゥゲ"Degué"はアーティストの名前ではなく、コンピエーニュ・クリスタル工場またはパリに籍を置くこの工場の工芸ガラス部門『ドゥゲ工芸ガラス』の社主David Guéronダヴィッド・ゲロン(トルコ出身 生没年不詳)の名前をもじったブランドネームである。
1926年から1939年まで存在したこのブランドは、今日なおアールデコ・ガラスの有名ブランドとして広く知られ、特に照明器具は人気が高い。
初期にはガレ風、ドーム風、シュネデール風な作品が多かったが、1928年に才能豊かな陶芸家Edouard CAZAUXをデザイナーに迎えてからはオリジナルな作品が作られ、Degué=CAZAUX と専門家の間では認識されている。
アールヌーヴォー色を残す鮮やかな色ガラス作品と、型でプレス成形された幾何学的なアールデコ作品とがあり、いずれも同じサインがされているが両者は全くキャラクターが異なる。

左から..Goupy 花器1920-25年・瓶1925年 Chevalier 香水瓶(Lubin社のl'océan bleu)1925年・キャラフとグラス『噴水』1925年(アールデコ博出品作) Degué プラフォニエ・パフュームランプ1930年代

アンティック姉妹社でご紹介中のDegué作品もご参照下さい。


2013年9月25日水曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その19-

【アール・デコのガラス】1910年代から1930年代まで 《フランスの主な作家達 Ⅰ》

簡単に纏める予定で始めたアンティーク・ガラス豆百科シリーズ、まだ完結しません。
締め切り期日がある訳でもなければ、催促する人がいる訳でもなく、勝手気ままに綴っているのでついノラリクラリしてしまいますが、久々に更新します。

アールデコのガラス作家として今も世界的な知名度を保っている代表的なアーティスト(ラリック以外の)を挙げてみると、奇しくも全てフランスの或いはフランスで活躍した作家ばかりです。(マニアックに、またもっと詳細かつ広範囲に語ろうとすれば勿論この限りではないのですが、ここでは私見的一般論にとどめたいと思います。)
これはアール・ヌーヴォーのガラスにおけるエミール・ガレの影響力のように、アール・デコにおいてはやはりルネ・ラリックの影響力が大きかったことを意味するのかも知れない、と愚考します。また、19世紀後半から20世紀初頭にかけての美術界全般において、フランスが世界の桧舞台であった事実も関係しているのかも知れません。

Maurice MARINOT モーリス・マリノ(1882-1960)
シャンパーニュ地方のトロワ(18世紀から近年まで繊維産業特にニット産業の中心地として有名)で代々繊維業を営む家庭に生まれる。19歳からパリの国立美術学校でフェルナン・コルモンに師事し絵画を学ぶが、あまりに個性的過ぎると師に見放される。1905年からアンデパンダン展やサロンドトンヌ展に絵画作品を出品し、フォーヴィズム(野獣派)の画家として知られるようになるが、1911年にパリ郊外にあった友人のガラス作家ヴィアール兄弟の工房を訪ねて以来、ガラス工芸の魅力に取り憑かれ、1912年(30歳)よりガラスの研究、技術の習得、ガラス作品の制作に専念する。
1913年には既にガラス作家として個展が開かれ、その後コンスタントに作品の制作、発表を続け、ガラス作家としての名声を築くが、1937年にそれまでアトリエを提供し、協力をしてくれたヴィアール兄弟が工房を閉めたのと同時に彼自身の体力も尽き、病を得てガラス作家を廃業する。故郷に帰り、絵を描きながら晩年を過ごしたが、モーリス・マリノの名は画家としてよりもガラス作家として今も輝き続けている。
初期の作品は薄手のガラスにエナメル彩を施した絵画的なものが多いが、1923年以降は分厚いガラスに大胆なカットやエッチングを施したり、無数の気泡をガラスの中に閉じ込めたりした彫刻的で独創的な作品が多い。ラリック作品とは対照的に、一点一点作家自身の手で創り出されたガラスの芸術作品であるだけに、稀少で滅多に市場に出回ることは無い。アール・デコの作家というより現代作家の作品のような新しさが感じられる個性派のガラスである。

Marius SABINO マリウス・サビノ (1878-1961)
シチリア島(イタリア)に生まれ、4歳の時に一家でパリに移住する。彫刻家であった父の勧めでパリの装飾美術学校及び美術学校で学んだ後、普及し始めた電気の光に魅せられ、照明器具の製作を始める。1920年頃或るガラス作家と共同でパリ郊外にガラスを用いた照明器具の工場を設立し、パリのマレー地区に大きな店も構える。1925年にパリで開催されたアール・デコ展(装飾美術と近代産業美術万国博覧会の略称)に出展し、シャンデリア類が大好評を博す。これを機に豪華客船やペルシャ王宮などの装飾照明を受注したり、海外に販売店を多数持つなど国際的に事業を発展させた。
照明の他に、型による花器や置物などガラスの装飾品も数多く手がけ、これらは大量生産された。1925年からはこうした小物類をオパルセントグラスで作り、サビノといえばオパルセントグラスと現在一般的に認識されているほど主要な商品となる。彼は1939年まであらゆる展示会や展覧会に出品し続け、精力的に活動を展開し、成功を収めたが、第二次大戦後は健康を害し、養子である甥に全てを引き継いで引退する。
彼の死後、全ての作品がアメリカに輸出され、1978年にはアメリカの代理業者がサビノ社の権利や製造設備を丸ごと買い取り、往時の型を使い現在なおSABINOガラスの制作販売を続けている。

Frères SCHNEIDER シュネデール兄弟 (エルネスト1877-1937 シャルル1881-1953)
日本ではドイツ式にシュナイダーと発音されることが多いようだが、彼らはれっきとしたフランス生まれのフランス人で、ナンシーで育った。兄弟はDAUMガラス工場で働きながら、美術の基礎およびガラス工芸の技術や、工場運営のノウハウを習得した後、独立してパリ郊外のエピネー・シュル・セーヌに小さなガラス工房を開く。ドーム兄弟にその才能を見い出され期待と支援を一身に受けた天才的なアーティストであるシャルルと、経営者的能力をドーム兄弟に買われて管理職を任されていたエルネストの最強コンビだけに、めきめきと頭角を表し、1926年-1930年には500人もの職人を抱えるフランス第一の工芸ガラス工場へと発展させる。不況や戦争、事故などで事業は破綻と復興を重ねながらシャルルの息子達の代まで続き、1981年に完全に閉鎖する。
シュネデールの工芸ガラスの特徴は鮮やかで豊かな色彩と造形のオリジナリティ、金属とのコンビネーションなど他に類を見ない個性と完成度の高さにある。幾何学的な図柄がアシッドでグラヴュールされた作品にはLe Verre Français ル・ヴェール・フランセ、またはCharder シャルデール、 またはその両方のサインが見られる。

(左から)Marinot エナメル彩蓋付花器1912年 ・気泡入りカットガラスのフラコン1930年 Sabino シャンデリア1931年・
タナグラ1930年 (上から)Schneider 鍛鉄足付きクップ・ビジュー1918-23年・アシッドグラヴュールの花器1927-28年

2013年9月9日月曜日

ミニヴァカンス au BEC AU CAUCHOIS

ミニヴァカンス終了後既に2週間経ってしまいましたが、漸くこのシリーズの最終回です。

さて3夜目にして最後の晩餐、昼食抜きで臨んだ意気込みでLa Tentation(誘惑)と名づけられたムニュ・デギュスタシオン(おまかせメニュー)に挑もうかとも思いましたが、『最低8皿』にはさすがに怯み、この誘惑を退けて5皿のLa Calville(りんごの名前)メニューにしました。
因みに1夜目のメニューは3皿のLa Petite Calville、2夜目はア・ラ・カルトでした。

アペリティフのカナッペとアミューズは、毎回同じものが出ます。連続3回ディナーする客はいないのでしょう。
前菜は鰹のマリネを取りたかったのに本日は無しとのことで、最初に食べたオマール入りフォア・グラをリピート。
やっぱり美味しい!最初に上質なフォア・グラのまったりとした艶やかな味が舌に絡みつくと思いきや、突然爽やかな潮風が鼻に抜けるようなオマールの香りと食感、更にハーブのほろ苦さが余韻を残すという味の三重奏。こんな複雑で豊かなフォア・グラのテリーヌは食べたことがありません。
次の皿は、前夜と同じ大きなラングスティーヌが1尾、小さなリング状の手打ちパスタ入りの殻から摂ったブイヨンに浸かっており、ディル風味の泡状ソースを浮かしてあります。たまらない、もっと食べたい!後を引く美味しさです。
メインは『再考された純正ルアンの鴨、ズッキーニとオレガノ風味』。メニューには記載されていませんが、小さなりんごの形をしたコロッケと、白ブダンと夏のトリュフのスライスが添えられた豪華な一品。鴨の胸肉はたった一切れですが、しっかりと味付けされた非常に充実したものでした。
チーズのワゴン・サーヴィスの後、デザートと続き、更にミニャルディーズ(小菓子)とコーヒーで締め括るのですが、
デザートまでで降参し、部屋に退散しました。
ワインはLouis Jadot のボーヌ・プルミエ・クリュ2009年、上質なブルゴーニュのピノ・ノワールの芳香に酔い痴れ、ぐっすり眠ったのでした。

満足しました。シェフのお料理はテクニック、独創性、ミリメートル単位でジャストに仕上げられた味加減、火加減、どれをとっても完璧です。欲を言えば3泊3夕食するにはメニューの選択肢がもう少し欲しかったです。
庭に菜園があり、花壇には色々なハーブや食べられる花が植えてあり、どの料理にもお庭で摘んだ野菜や植物が使われているのもナチュラル志向で好感が持てます。
フェカンの人達のために持参した青紫蘇の苗を半分あげたら、シェフはとても喜んで自ら花壇に植えてました。紫蘇のお礼にと、子供達の追加料金をオマケしてくれたので、今度来る時は柚子を持ってきてあげると約束しました。

あれだけ良い食材に手の込んだお料理でお値段は安い!8皿メニュー75€(約10000円)、5皿メニュー57€、3皿メニュー45€と33€。1泊+朝食(二人分)は120€(約16000円)でした。
『また行きたいレストラン』が1軒増えました。

Le Bec au Cauchois (Restaurant PIERRE CAILLET)

大きな暖炉のあるラウンジとレセプション

玄関側の庭(左)と池側の庭(右)

池側の庭に面したメインのダイニングルーム

アミューズ・ブッシュ。キュウリの冷たいポタージュと山羊の生チーズの味のコントラスト(淡白-濃厚)が心地好い。

ラングスティーヌのスープ仕立て。この前にフォア・グラの前菜(一夜目と同じなので割愛します)。

メインのルアン鴨の料理。

夫のショコラのデザート(味見させてくれなかった程美味しかったらしい)。私は一夜目と同じのをリピート。


2013年9月8日日曜日

ミニヴァカンス3日目 ヴァロンジュヴィルからディエップへ

前日は昼にフェカンで飲み過ぎたせいで夜になっても全然お腹が空かず、困りました。
テーブルを予約してあったので無理して食卓に着いたものの、さすがにコースは食べられず、前菜とメインだけでデザート無し、パンにも手をつけず、ワインもハーフボトルがやっとでした。
三夜プログレッシブにメニューをアップグレードしていこうと目論んでいたのに…残念!
でも、ラングスティーヌ(手長海老?)のjuste cuite は、これ以上でも以下でも不可という正にジャストな火の入り方で、ラングスティーヌの美味しさを最大限に引き出した絶妙なお料理で、食欲が無かったにもかかわらず感動しながらいただきました。

さて3日目、何をしようか何処へ行こうか?全くノー・アイディア。ラウンジでPC版ミシュラン・マップを見ながら、テーブルセット中のサーヴィスのお兄さんに相談するも、彼の提案する場所は殆ど制覇してしまっているし…。とりあえずピカピカマークの付いている海辺の町 Varengeville-sur-Mer ヴァロンジュヴィル・シュル・メールという所に行ってみることにしました。
目的地と思しき辺りの街道端にANTIQUITE アンティキテの看板を出している家があったので、寄ってみました。目ぼしい物は無かったけれど、気のいい店主と常連客の二人のおじさん達のおすすめスポットの教会に向かいました。
海を見下ろす丘の上に建つ古い教会 Eglise Saint Valéry(聖ヴァレリー教会) は不思議な建物で、12世紀に建てられ、16世紀に増築され、ステンドグラスの一部は画家ジョルジュ・ブラックの作品で1963年に納められたとのことです。ブラックは、このステンドグラス設置後間も無く亡くなり、この教会の墓地に埋葬されており、折りしも今年没後50年とあってこの辺一帯のあちらこちらに『ジョルジュ・ブラックの年』と記された顔入りの旗がかかっていました。
灯明(キャンドル)を1本あげて教会を後にし、村へ行ってみようとしたところ村らしきものは見つからず、立派な古い館(ブルジョワの別荘?)ばかりなので、諦めて海の方に向かいました。
しかし、『海へ』の表示はあるものの車で行けそうな道も無く、結局、小高い丘から海を見晴らす絶好の場所にある瀟洒なホテルのテラスでお茶をすることに。
今夜こそは★付きのディナーをしっかりと堪能しなくては、と昼食抜きの覚悟を決めていたので、昼時になってきたけれど食事で時間をつぶすこともならず、有り余る時間をどうやって消化するか頭を悩ませました。
朝まで曇っていた空が晴れ、夏の陽射しが戻って来たことでもあり、何度も訪れた港町 Dieppe  ディエップまで足を伸ばすことにしました。ディエップの旧市街を少しぶらつき、暑くなってきたので車に戻り、たっぷり有効時間の残った駐車券を人にあげて一路ホテルへ。
フランスの田舎を走ると、街道沿いに時々ANTIQUITEやBROCANTEの看板を見かけます。期待はしないけれど暇ではあるし、私達の一種の習性でもあり、殆どの場合立ち寄るのですが、Le Bourg-Dun という町を抜けようとした時、看板を見つけました。街道から脇道を少し入ったところに、綺麗な庭のある素敵な藁葺き屋根の民家でBROCANTEの店を開いているのです。買うべき物は何も無かったけれど、少し暇つぶしができました。

なんとか1日をこなしてホテルに帰り着く頃にはさすがにお腹ペコペコでしたが、我慢してディナーへの期待に胸を膨らませたのでした。この日の晩餐については次回にレポートします。

2日目の夕食。左上は私の前菜『蟹を詰めたグリーン・ゼブラ(トマト)と野菜の和え物、アメリカン・ソース』。
左下は夫の前菜『野菜のガスパチョ、オリーブオイルのアイスクリームとトマトのムース添え』。
右は二人とも同じメインの『ラングスティーヌの尾の身juste cuite、アスパラガスとシブレットのムース』。
竹串を打ってポシェした滅多に無いほど大きなラングスティーヌの剥き身はプリプリとして甘く、絶品!

Varengevilleの教会とテラスからの眺め。天気が良かったら絶景かも。

教会内部。左のステンドグラスがジョルジュ・ブラック作。
右はLisieux のSainte Thérèse(聖テレジア)の像。ノルマンディー一帯で祀られているようだ。

お茶をしたホテルのテラスに咲き誇っていた紫陽花。

Dieppeの街中の古い教会 Eglise Saint-Rémy

Le Bourg Dun(ル・ブール・ダン)のBrocanteの店兼住宅。左はこの家の庭から望む町のカテドラル。

2013年9月4日水曜日

ミニヴァカンス2日目 ヴァルモンそしてフェカン

今回のミニヴァカンスのメインである、安くて美味しい(かも知れなかった)料理旅館はVALMONT ヴァルモンという小さな村にある"LE BEC AU CAUCHOIS" ル・ベック・オ・コショワというオーベルジュです。
田舎の街道筋に19世紀からある古いオーベルジュ(旅籠)をリュスティックモダンなホテル・レストランに改装し、若きオーナー・シェフPierre CAILLET ピエール・カイェと奥さんが経営しているのです。
シェフは2011年にMeilleurs Ouvriers de France(国家最優秀職人賞、日本の人間国宝に相当する)を授与された料理人で、2012年にミシュラン赤ガイドで1★を獲得しています。
MOFのコンクールは4年に1度しか開かれず、色々なジャンルに分かれていて、食関係だけでも料理人、パティシエ、ショコラティエ、ソムリエ、バーマンなどの部門に更に分かれます。2011年には400人の料理人が応募した中から10人が選ばれたとのことです。MOFの料理人は襟に三色旗が付いたコックコートの着用が認められ、CAILLET氏も誇らしげに着用しておられました。
三夜連続で名人のお料理をいただくとあって、1日目のお昼は極軽くヴール・レ・ローズ名産の生牡蠣とスープ・ド・ポワソンだけ、デザート無しでディナーに臨みました。
結果は、『大当たり!』でした。私の勘に狂いはありませんでした。またしても『安くて美味しい料理旅館』発見です。
部屋は5部屋しかなく、簡素だけれど清潔で居心地が良く、大きな池に面した美しい庭に直結しており、眺めが素晴らしく、子供達が自由に庭に出で遊べるのが嬉しい。テレビが旧式で小さいのとWifiが繋がらないことを除けば、キャリテ・プリOKです。

1日目は曇りだった天気が2日目は雨になってしまいました。去年も一昨年もインディアン・サマーに恵まれたのに、今年は出かける前日まで続いていた好天がまるで嫌がらせのように急変し、ついてないなあ、まったく。
気を取り直して、車で15分ぐらいのFECAMP フェカンの街へ向かいました。3~4年前から、この街にうちの子供達の親兄弟が住んでいて、私達はそのお宅を子供達の実家と呼んでいるのです。彼等一族はキャラクターが強烈で、特に女子は性格がきつく顔を合わせると喧嘩が始まるので、子供達同士は会わせられません。彼等の養父母であり養祖父母にあたる日本人カップルは、彼等7匹(現在は6匹)のためにパリ1区のアパートを売りはらって港町フェカンに移住したのです。今回は近くに来たついでに、子供達のおばあちゃん達に自家製のカボチャ、キュウリ、茗荷などを届けたのでした。
久しぶりの再会で話が尽きず、フェカンのレストランで海の幸の大盛り合わせをつまみにワインをたくさんいただきました。でも、田舎に会いに行ける親戚(?)が住んでいるのは、なかなか良いものです。今度は、柚子が生ったらまた届けに来るからといって別れました。

日暮れ時のル・ベック・オ・コショワ。野中の一軒家といった風情。

第一夜のディナー。左はアペリティフとおつまみ。自家製バター。りんご入りのパン。
前菜のフォア・グラのテリーヌ、オマールのそぼろ入り。最高に美味!

メインはフェカン湾の平目、キャベツの芯とニワトコの花風味のソース添え。
フランボワーズとピーマンのデザート。意外に相性が良く、大人の味。

部屋の前の庭。水面に朝靄がかかっていた。

モノトーンでシックな朝食のお部屋(夜はレストランの個室として使用)。
コンチネンタル朝食。全て自家製、手作りで美味しい。

朝のお散歩で牛さん達に対面。草を食べていたのを止めてみんなでBB達を見に近付いて来た。
興味津々だったくせに近過ぎると見ないふりをする複雑なBetty。Bokuは我関せず牛に負けじと草を食む。

左はBB達のパパVinci。右は妹(姉かも)のMomoちゃん。ママが亡くなり、今はパパと小父さんとお兄ちゃんと姉妹3匹が牡雌1匹ずつの3グループに分かれて家庭内別居で暮らしている。


Le Bec au Cauchois のHP: http://www.lebecaucauchois.com/