2013年4月28日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その13-

昨日は『春の嵐』といった天気で、我家の周囲20m圏内はピンク色の花吹雪でした。
午前中は20℃以上あったのに午後には9℃ぐらいまで気温が下がり、こういうのを『花冷え』というのでしょうか。
きょうは夫が姉妹社の新着品をまとめて撮影しました。ショップへの陳列準備に取り掛かると暫くブログも書けなくなりますので、その前にガラスの話を一稿UPしておこうと思います。
アールヌーヴォーは私の好きなジャンルだけに、つい力が入り予定より延長してしまい、ご迷惑をおかけしております。
続々編ぐらいで終わるつもりが続々々々・・・になりそうなので、表示を変えました。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅳ》
ナンシー派(ECOLE DE NANCY エコール・ド・ナンシー)という言葉は、たとえば印象派とか象徴派などのように観念的な流派、傾向、スタイルといった意味合いでも使われますが、元はといえば1901年にエミール・ガレのお声がかりで結成された組合のようなグループの自称でした。
初代会長はガレ、副会長はドーム、会員にはヴィクトール・プルヴェ(画家)、マジョレル(家具作家、デコレーター)、ヴァラン(建築家)、ジャック・グリュベール(ガラス作家)、高島北海(日本画家、地質学者)を始め、ロレーヌ地方の工芸家や芸術家が集まり、地元の豊富な装飾美術、工芸などを文化的かつ商工業的に発展させようという活動を展開したものだったのです。定期的に展覧会を開いたり、印刷物などを介してナンシー派のアールヌーヴォー運動を推進し、全国的にそして世界的に広めました。
ナンシーにあるエコール・ド・ナンシー美術館にはそうしたナンシー派の装飾工芸美術の粋が結集しており、アールヌーヴォー愛好家の巡礼地の一つになっています。
ナンシー派のガラスの最終章として、ナンシー派の流れを汲むBig3以外のガラス作家を紹介いたします。

Désiré CHRISTIAN デジレ・クリスティアン(1846-1907)
エミール・ガレと同じ年に生まれ、13歳からマイゼンタールのガラス工房(ガレ親子が自社工房を立ち上げる前に契約していた工房)で働き始めた生え抜きのガラス職人で、ガレとは幼馴染み。作品は自然派でガレの影響が見られる。

Paul NICOLAS ポール・ニコラ(1875-1952)
ナンシーの美術学校で建築と絵画を学んだが1893年からエミール・ガレのガラス工房にデザイナーとして入る。植物が非常に好きで詳しく、植物学者でもあったガレの愛弟子となり、ガラスの技法を伝授される。1919年にサン・ルイガラス工場のバックアップで独立し、d'Argental ダルジョンタルのサインでナンシー派スタイルのカメオ作品を多数作った。1920年代末からはP.Nicolasのサインでアール・デコ的な作品を作り、アール・デコのガラス作家としてむしろ有名。受賞暦も多数持つ優秀なガラス作家。

André DELATTE アンドレ・ドゥラット(1887-1953)
ガラスとは無関係な様々な職業を遍歴した後、MULLER兄弟と親しくなりガラス工芸に目覚める。1919年にナンシーにアトリエを設立し、当初はMULLER工場で吹かれたガラスに加飾をしていたが、1921年にナンシー近くのJarvilleに自社工場を開き、成功する。ガレやドームに良く似たアール・ヌーヴォー作品と、カラフルなアールデコ作品とがある。

Jacques GRUBER ジャック・グリュベール(1870-1936)
ナンシーの美術学校で学んだ後、市の奨学金によりパリでギュスターヴ・モローに師事。1893年ナンシーに帰郷し、美術学校の教師、ドームで花器のデザイナー、マジョレルで家具のデザイナーなどを勤めた後1897年に独立。間もなくステンドグラスのスペシャリストとして有名になり、各地の教会、銀行、邸宅、デパート(パリのギャラリー・ラファイエットの円天井)、豪華客船の照明など大作を数多く手がける。フランスで最も著名なステンドグラス作家である。

画像は私が直接撮影したものの他、Art lorrain aux enchères, artfinding.com, ecole-de-nancy.comなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。

デジレ・クリスティアン作オダマキ文花器  ダルジョンタル(ポール・ニコラ作)ナスタチウム文花器  ドゥラット作薔薇文吊灯

ジャック・グリュベール作ナンシー派美術館(コルバン邸)のヴェランダのステンドグラス


2013年4月26日金曜日

ロワールのシャトー・ホテルで春うららな一日を過ごす

21日は夫の誕生日を祝うために(というのは口実なのですが)、レオナルド・ダ・ヴィンチが眠る町アンボワーズの傍にあるCHATEAU de PRAYシャトー・ド・プレーというシャトーホテルに行って参りました。
ロワール河畔に聳え立つアンボワーズ城から2kmほど離れた河を見下ろす丘の上に小ぢんまりと建つこの古城(13世紀には砦だったのがルネッサンス期以降貴人の居城となったそう)が、ホテル・レストランとして生まれ変わったのは1950年代とのことです。シャトーホテルのパイオニア的存在で、私も名前だけは知っておりましたが訪れたのは初めてでした。
例によって、星付きレストランを兼業するペットOKの素敵なホテルで、パリから250km圏内、場所が良く、美味しく、安いという厳しい条件を満たす所を、ミシュランやら各種サイトやらで比較検討した結果、最終候補に残った2軒のうちの一軒が此処だったという訳です。

雲ひとつ無く晴れわたった春の日曜日、菜の花畑や青々とした麦畑を車窓に眺めながらのドライブは快適でした。
時間つぶしに寄ったTOURS近くの小さな村のBROCANTE / VIDE-GRENIER(古物市と屋根裏整理市)は予想どおり最悪で、『行って損した気分』に一瞬落ち込みましたが、AMBOISEの城下町(文字通りお城の下にあります)で、Morille(モリーユ=アミガサ茸)のオムレットと生ビールのお昼に有り付き、機嫌を直しました。そういえばMorilleが出る季節です。一昨年の夫の誕生日に行ったホテル・レストランでも、季節の一品だからと勧められて高いのに(私だけ)いただきましたっけ。

目的地のCHATEAU DE PRAYに着き、車から降りたとたん子供達は『きょうはここがおうち!』とばかりにはしゃぎ回り、ホテルの人達に付いて回って愛嬌を振りまき、大変でした。
予約した離れのお部屋は小さいけれどシックで、中二階に子供用寝室もあり(ウチの子達は木の螺旋階段に足を滑らせて往生し、一度見に上がったけど断念したようだ)、モダンな浴室にはバスローブもあり、Wi-FiもOK、お部屋のポイントは及第点クリアです。本館の部屋も見せてくれましたが、お城お城した典型的なクラシックなシャトーホテルの部屋でした。昔はそんなタイプの部屋が好きでしたが、最近の私達のトレンドではないし、子供達がいるので気兼ねの無い離れをやはり選びました。
離れの前のジャルダンだけでも子供達には十分な広さだったけれど、広大な敷地内にはシャトーの前庭、菜園、プール、森もあり、散歩が楽しめます。

古めかしいダイニング・ルームに20時ちょっと過ぎに行くと既にほぼ満席。日曜の夜だからガラガラかと思ったのですが、さすが星付きレストランです。
主人の誕生日だから良い席をと事前に一応リクエストを入れておいたのですが、前庭に向いた窓際の特等席がちゃんと用意されていてまずは満足。悪い席に案内されると、それだけでマイナス気分になりますから、レストランの席順は大事です。夫などもろにふくれっ面になり、帰ろうとか他所行こうとまで言い出しますから。

お料理は、アミューズと前菜はちょっと…でしたが、メインは帆立も鳩も美味しかったです。
シェフは今カリカリ食感と大根にはまっているらしく、ほぼ全ての料理にカリカリした物や大根系が使われていて、時にそれが邪魔になりました。
しかし、値段の割に食材が良く、火の通し方も上手、こちらのリクエストに応えてくれる寛大さ(子羊を小鳩に代えてもらった)、サーヴィスの感じ良さなどを含め、全体として気持ちの良いディナーでした。ワインは地元ロワールのワインにしてみたのですが、ピノ・ノワール派の私達はやはり何処であろうと迷わずブルゴーニュにするべき、と反省しました。
でもとにかく安い!午後庭内を散歩した後の冷たい飲物、アペリティフのシャンパンと18年もののスコッチ、夕食とワイン代、部屋代、子供達の追加料金、ビュッフェの朝食、全てひっくるめてホテルに支払った金額はなんと私の誕生日のパリでのディナーとほぼ同額でした。

今回はお天気に恵まれ、人に恵まれ、春うららで楽しいPETIT VOYAGEでしたよ。

AMBOISEの城下町にて

CHATEAU de PRAY 前庭より

私達が泊まった離れ

離れの部屋、窓からの景色、朝食をとったオランジュリー

森(庭内)の小道、菜園から城を望む、駆け回った後一休みするBetty

暖炉が美しい小ダイニングルーム、メインのダイニングルーム

この前にアペリティフのおつまみとアミューズ、デザートの前にチーズ各種


2013年4月21日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その12-

いつも咲くのが何処よりも遅い我家の八重桜も漸くチラリホラリ咲き始めました。
ところが、昨日からまた寒くなってきております。
明日はロワール地方にお出かけだというのに、やっぱりダウンジャケットで着膨れて歩くことになりそうです。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅲ》
ナンシー派のガラスの代名詞のようなガレ、ドームに次いで忘れてはならない名前がもう一つあります。
MULLER FRES Lunévilleのサインでお馴染みのミュレー兄弟(日本ではミューラーと呼ばれているらしい)です。

MULLER Frères ミュレー兄弟社について
1860年代~80年代にかけて9人の男子と一人の女子からなるミュレー家の子供達は、サン・ルイ・レ・ビッッチュの傍の小さな村でオーベルジュ(旅籠)を営む両親の元に生まれたが、周りにはサン・ルイやマイゼンタールなどのガラス工場があり、村人達の殆どがガラス職人という環境に生まれ育った彼らは、ほぼ全員が極自然にガラスの世界に入る。
1870年の普仏戦争でドイツ領となったこの地では17歳になった男子には兵役の義務が課せられたが、ミュレー一家はこの兵役を避ける為、順々に密かにフランス領として残ったナンシーに難民として移住する。
折りしもエミール・ガレがナンシーにガラス工房を開いたばかりの時期であり、兄弟のうち5人が入れ替わりにガレの工房に入り、ここで仕事をしながら秘法を学び取る。
1895年必要なものをしっかり身につけてガレ工房を去ったアンリが、ナンシーに近いリュネヴィルでガラスの加飾工房を起こし、これを機に続々と兄弟達が集まり、アンリ、デジレ、ユジェーヌを中心に、すぐにガレを悔しがらせるほどの大メーカーに発展させてゆく。
途中、戦争や不況で廃業した時期を経ながらも1956年までMULLERの名は続いた。

1895年から1914年までの初期の作品のサインにはMULLERの名の他にCroismareの地名が入っているもの、VSL(1905~1908年ベルギーのヴァル・サン・ランベールにデジレとユジェーヌが招聘されて制作した作品)とサインされたものがあり、この時期の作品は概して芸術性が高く、稀少です。
1919年から1935年の作品にはMULLERの名の他にFRERESもしくはFRES、LUNEVILLEが加えられています。1914~1918年の第一次大戦で、最も芸術家だったと皆が認めていた末弟ユジェーヌを失ったミュレー兄弟が弟への追悼の意味を込めて"Frères"『兄弟』をサインに付け加えることにしたとのことです。
この時期は既にアールヌーヴォーが終焉していたし、1925年以降はMULLER兄弟社もアールデコ様式の作品を制作していたにもかかわらず、何故かガレ工房同様、ミュレー工房でもナンシー派の作品を作り続けています。

MULLER作品は、技法的にはガレやドームが使った技法が全て駆使されており、中には見分けがつかないほど酷似したものも見られますが、一味違う点は、独特の色彩と混ざり具合をもつ雲のような斑文が常に素地に見られることです。この美しい雲斑は配色のパターンが何種もあり、私にはいずれも空のように見えます。

画像は私が直接撮影したものの他、サザビーズ・オークション、クリスティーズ・オークション、DROUOT.COM、lartnouveauenfrance.wordpress.comなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。


《MULLERの花器各種》
(左より)Muller Croismareサインの花器1900年頃  VSLサインの花器2点1905-08
MULLER FRES LUNEVILLEサインの花器2点1925年頃  花蝶文 アネモネ文 

《MULLERのランプ類》

《MULLERの雲斑の色見本》
画像は全て私の新・旧コレクションの花器、ランプ、器などより


2013年4月16日火曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その11-

ここ数日来朝から気温が10℃以上あり、今度こそ本格的に春になったと思っていたところ、きょうは突然27℃ぐらいまで上がり、まるで初夏のようでした。
街のカフェのテラスは久々の陽射しを愉しむ人々で賑わい、薄物の袖無しワンピースで歩いている人も見かけました。
1週間後の夫の誕生日(ロワールのお城に行く予定)までこの陽気が続くといいのですが…。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅱ》
前回は、ナンシー派の巨匠エミール・ガレの話で終わってしまいましたが、きょうはナンシー派のガラスを語るのに絶対欠かすことのできないもう一つのビッグ・ネームであるドームのガラスについて書いておきたいと思います。

DAUM frères ドーム兄弟社について
兄Augusteオギュスト(1853-1909)と弟Antoninアントナン(1864-1930)のドーム兄弟は、6人兄弟姉妹の長男と末っ子としてロレーヌ地方のBitcheビッチュに生まれる。兄弟の父はこの町で公証人をしていたが、1876年一家は普仏戦争でドイツ領となったこの地を去り、Nancyナンシーに移住する。
1878年、兄弟の父Jeanジャンは融資していたナンシーのガラス工場を買取る破目になり、突然全く畑違いながら150人の職人を抱える工場主となる。パリで法律を学んだ後ナンシーの公証人事務所に勤めていた長男オギュストは父の工場経営を手伝うために法律家としての道を断念し、1885年に父が亡くなった後は負債まみれの工場を受け継ぎ、弟アントナンが参加するまで、この運営に孤軍奮闘を強いられる。
アントナンはエコール・サントラル・パリ(工学・技術系エリート養成のための高等教育機関でフランスの理工系ではトップクラスの学校)で学んでいたが、学位取得直後の1887年から兄のガラス工場経営に参画する。
アントナン自身がガラス作家であったように誤解されがちだが、彼は芸術家でも職人でもなく、企画発想力、組織作り、統率力に優れたリーダーでありプロデューサーであった。
ドーム兄弟社は1891年からアートガラス部門を新設し、一切を任されたアントナンは後にステンドグラス作家として有名になるジャック・グリュベールや、優れたイラストレーターであるアンリ・ベルジェなどの若い美術家や技術者を招聘し、アート・ディレクター兼工場内の美術学校の教師として協力を得、アートガラスの制作を充実させていった。
見習い工として雇った少年達に美術の基礎教育をほどこし、優秀な生徒にはナンシー市立およびパリの美術学校にまで進ませるなど人材養成を徹底した結果、師弟共に才能を磨き、多くの優秀な工芸家がドーム社を巣立って行った。
良く知られた名前では先のグリュベール、シュネデール兄弟、アマルリック・ワルターなどが挙げられる。
こうして倒産しかけていたガラス工場は、優秀なドーム兄弟によって立ち直り、1889年にはパリ万博に出品するまでになり、その後も発展を続けて国際的な名声を獲得するに至る。戦争や不況による紆余曲折を経ながらも創業から130年以上経った今なおDaumの名はガラス界において揺るがぬ位置を保持している。(2000年以降のドーム社の経営はドーム一族の手を離れている。)

ドームのガラスとして我々が今も認識できる作品の殆どは1891年以降のものなので1890年代前半を初期と呼ぶとして、初期の製品はヴェールリー・アーティスティック・ド・ナンシーと銘打った1891年のカタログ掲載品ですら、高級感はあるものの未だ本格的なアートガラスとは言い難いヴェネチアンやボヘミアン風な透明ガラスに金彩で装飾したテーブルウェアがメインだったようです。
ところが1893年には、エッチングでカメオ彫りを施した様々なフォルムや意匠を凝らした多層ガラスのアートガラス作品を
既にシカゴの博覧会に出品しているのです。アントナンの推進力のほどが窺えるドーム作品の進化はこの後留まることを知らず、アートガラス部門発足後わずか9年で1900年のパリ万博でエミール・ガレと肩を並べてグラン・プリを分け合うという快挙を遂げたのです。(ガレはこのW受賞を不当であると見做し非常に憤慨したと伝えられます。)
こうした目ざましい進歩の原動力のひとつとして、強力なライヴァルであると同時にアイドルであり、アールヌーヴォー運動の精神的リーダーであったガレの影響があったであろうことは想像に難くありません。

ドームは特許を取った新しい技法をいくつか持っており、特に多用されたものにヴィトリフィカシオンがあります。
一種の被せガラスですが、溶けたガラス種を被せるのではなく熱いガラスに別の色ガラスの粉をまぶし、焼き戻してならすという工程を繰り返すことによって複雑な色の斑紋が比較的簡単に得られる技法で、1900年以降のドーム作品の殆どに使われており、印象派の絵画のような色のニュアンスはこの技法の効果です。
しかし、ドーム作品の最も美しい特徴は詩的な風情を漂わせながらも精緻に描かれた絵にあると私は思います。四季折々の風景や植物が描かれた作品はガレのそれとはまた違い、遠近感や立体感がより自然に近く、暖かく心に迫るものが感じられます。アントナンはこれを故郷ロレーヌの美しい自然の恵みと考えていたようです。

画像は私が直接撮影したものの他、パリ装飾芸術美術館、サザビーズ・オークション、EST-OUESTオークション、ELITEAUCTION.COM、HICKMET FINE ARTSなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。

《初期の実用的な作品》
左より(上)Florentinパターン1891年頃 (下)Irisパターン1900年頃  (上)色被せ+エッチング+金彩のフラコン (下)ロレーヌ十字文キャラフ1891年  ジブレ+エナメル彩グリザイユ風景文ビールセット1892年頃 
(上)エッチング+金彩桜文グラス1893年頃 (下)エッチング+金彩梅文水差し1893年 

《1890年代後半の作品》
(左より) エッチング+エナメル彩+グリザイユ花畑文塩入れ  エッチング+金彩昼顔文花瓶  (上)エッチング+金彩オパルセントガラスアイリス文卵型花器  (下)エッチング+金彩オパルセントガラス鈴蘭文銀器付きミルク入れ  カメオ彫り葡萄文銀器付き水差し 

《代表的な名品》
(左より)カメオ+ヴィトリフィカシオン+アプリカシオン蜻蛉文花器1904年  ヴィトリフィカシオン+エッチング+グリザイユ+エナメル彩花器1895-1900年  エッチング+エナメル彩風雨樹林文花器1895-1900年  ヴィトリフィカシオン+エッチング+エナメル彩華蔓草文花器1900年頃 (上)カメオ+エナメル彩夏景色花器1900-1908年 

《電気照明器具》
(左より)ドーム・マジョレル合作睡蓮のランプ1903年頃  ドーム・マジョレル合作タンポポのランプ1902年頃  


2013年4月9日火曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その10-

パリ市庁舎のセーヌ川に面した庭には木蓮の大木があり、毎年美しく花を咲かせます。
一昨日横を通ったら、いつの間にか蕾が大きく膨らんで今にも咲きそうにピンク色になっていました。
パリにも漸く遅い春が来たようです。
さて、長らく中断してしまいましたが、ガラスのお勉強を再開いたします。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅰ》
アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動です。
モダン・スタイルまた1900年スタイルとも呼ばれ、時代様式もしくは装飾美術様式のひとつとして認識されており、
うねるような植物的で複雑な曲線が特徴的です。私見ですが、ロココ様式やジャポニズムにも通ずる一種耽美的で独特なスタイルは、世紀末のあらゆる芸術に共通の妖しい美学が感じられます。
この伝染病的に流行したアールヌーヴォー運動は、工芸分野を起点として展開しました。そして素材として最も注目されたのがガラスだったのです。
ガラス工芸家に限らず、画家、陶芸家、宝飾工芸家、彫刻家、建築家などがこぞってガラスによる新しい表現の可能性に着目し、これを取り入れたり、自らガラス工芸を手がけたりしました。
こうして、それまでは主に実用のための素材であったガラスが、新たな芸術の表現素材として、更には芸術作品としてよみがえったのです。
アールヌーヴォーのガラス工芸に最初の礎石を置いたのは、パリのユジェーヌ・ルソー(1827-1891)と、ナンシーの
エミール・ガレ(1846-1904)だったといわれます。
共に1878年のパリ万博に出展し、評論家たちに絶賛され、ガラス工芸が世の注目を集めるきっかけを作ったのです。
アールヌーヴォー期のガラス工芸家は、後にパリ派とナンシー派と呼び分けられるようになるのですが、この二人の巨匠が各派の元祖、リーダーであった訳です。
作品の少ないユジェーヌ・ルソーに比べて、圧倒的に多作で組織的に工房を運営していたエミール・ガレは当時から今に至るまで知名度が高く、ガレ抜きにはアールヌーヴォーを語れないほどのビッグネームです。
作品の量のみならず、創作のスタイルや技法の独自性、芸術性、多様性でも郡を抜いており、古今東西を通じて最も著名なガラス作家と言っても過言ではないガレの作品をまずはご紹介したいと思います。

EMILE GALLE エミール・ガレについて
ガレその人についての記述は多く書かれており容易に検索することができますが、簡単にその生涯について記します。
1846年フランス東部ロレーヌ地方の都市ナンシーに生まれる。パリ生まれの父は元々画家で繊細なエナメル彩をよくするアーチストであったが、妻の実家の家業である陶器やクリスタルの販売業を受け継ぎ、これを発展させてオリジナル商品の製造販売をするなど意欲的に商売を展開していた。こうした絵心のある裕福な商人の家の一人息子として生まれたエミールは、大切にしかも大胆に育てられた。
地元での中等教育を終えた後、ドイツ留学やロンドン遊学、また合間にはマイゼンタールのガラス工場でガラス制作技術や会社経営法を学んだり、製陶工場に入り絵付けの仕事をしたりなどして、父の後継者となる為の修業をする。
こうして一通りの勉強を終えたエミール・ガレはついに1872年に自ら小さなガラス工房を作り、1874年からは父を説得して彼がサン・クレマンに持っていた製陶工場を整理させ、設備や職人をすべてナンシーに移し、陶器・ガラス工場を新設して本格的に高級ガラス器や陶器の製造を開始する。
1878年のパリ万博への出品と受賞(金メダル4個)を果たし、初めて世に美術家として名を知られるようになる。
1883年からは家具の制作も始め、寄木細工を主とする装飾的な家具はガラスに劣らず人気を博し、注文が殺到した。
この頃から亡くなる寸前の1904年まで、ほぼ毎年のように国内外の展覧会にガラス、陶器、家具などを出品し、大成功を収め続ける。
1904年、創作へのエネルギーを燃やし尽くした時代の寵児エミール・ガレは、数年前から少しずつ蝕まれていた白血病についに倒れ、9月23日、この世を去っていった。

ガレの作品は、時代や彼自身のスキルや心境の変化につれて様々な変遷を呈し、その特徴をひとことで言い表すことは不可能ですが、一部を除いてほぼ全ての作品に通ずる通奏低音のようなエレメントがあると思います。
それは、自然界への強い想い『憧れ、畏れ、愛』ではないでしょうか。生涯にわたって植物や昆虫を愛したガレは、自分のアトリエの扉に『私の根(原点)は森の奥深くに在る』と記していたとのことです。
経営センス抜群の企業家としての顔と、ナイーブで抒情的で職人的な芸術家の顔を併せ持つガレの作品が人々の心を捉え続ける魅力の源もこの辺りにあるのかも知れません。

画像はパリ装飾芸術美術館、コーニング・ガラス美術館、サザビーズ・オークション、クリスティーズ・オークション、写真家Cédric AMEYなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。

《代表的な名作》
(左より)オダマキ文花器 1902年  『フランスの薔薇』杯 1901年  海藻と貝殻を纏った手 1904年 
(左から4点はナンシー派美術館蔵 右端は旧ルイス・C.ティファニー庭園美術館蔵 パリ・サザビーズ・オークションより)

《第一期工房作品  1874-1904年》
(左より)エナメル彩花器 1900年頃 (上)花蝶文プラフォニエ 1902-1904年 (下)月光色アイスクラック花瓶 1880年頃 (上)エナメル彩ガラス器4点 1880年頃 (下左より)鯉文花器 1878年  蜻蛉文悲しみの花瓶 1889-1890年     藤文花器 1900年頃 

《第二期工房作品  1904-1914年》
(左より)桜文ランプ 1906-1914年   ノワゼット文花器 1906-1914年   アブチロン文ランプ 1904-1906年  (上)クレマチス文小花瓶  (下)ナスタチウム文蓋物

《第三期工房作品 1918-1931年》
(左から)ボケ文花器  コモ湖風景文花器  シャクナゲ文ランプ  プラム文花器  象文花器

2013年4月3日水曜日

誕生日のディナー

本来ならガラスの話の続きをしなくてはならないのに、またまた食べた話が続いて恐縮なのですが、余韻醒めやらぬうちに記録しておかないと歳のせいか忘れてしまうのです。
と、いいながらもホラ、3日目の今日は、既に味や食材など忘れかけております。

3月30日は私の〇〇回目の誕生日でした。4月の夫の誕生日は泊りがけで食べに行くのですが、私の誕生日はまだ寒いのでパリで食事だけというパターンがここ何年かの慣わしになっており、去年はミシュランの星を獲得したばかりのSOLAに行きましたが、今年は迷い抜いた末パリ8区ジョルジュ・サンク通りのLE DIANEでディナーをしました。
シャンゼリゼ通りとジョルジュ・サンク通りの角にある超有名な老舗レストランFOUQUET'Sがホテル・チェーンのBARRIEREの傘下になり、隣にHOTEL FOUQUET'S BARRIEREが出来てから数年以上経ちましたが、レストランLE DIANEはそのホテルのメイン・ダイニングです。
特に有名ではないし、私も実は知らなかったのですが、ミシュランのサイトでユーザーの評価が抜群に高く、あの"黄金のトライアングル"と呼ばれる場所にある星付きレストランとしてはリーズナブルなお値段ではあるし、土曜日も営業しているし、写真で見たところ素敵そうだし、という訳で決めたのでした。
結果は?と訊かれたら、やっぱり高かった!という言葉がまず出ますね。何が高いってアペリティフとワインと水1本ずつとコーヒー、の飲物代がお勘定の約半分を占めているのです。自分で選んだ訳だけれど、なんか愕然!
肝心のお料理は6品のデギュスタシオン・メニューにしたのですが、量的にはさほど重くはなかったものの、舌に重いというか新鮮味に欠け、味覚的にも視覚的にも飽和状態に達してしまう感がありました。どれも美味しいのだけれど、それだけ。驚きや感動を覚えないのです。
ひとつには照明が暗過ぎて、お料理の彩りやディテールが良く見えないというのもマイナスだったかも知れません。(写真はレタッチによって明るくしてあります。)
Laurent PerrierのクップとAloxe Cortonは美味しゅうございましたし、雰囲気も良かったです。
ま、人間にとって食事というのは何を食べるかだけではなく、どのように食べるかという事も大事なわけで、口の中だけの狭い世界で論ずるべきではないと思います。
パリの象徴のような場所で、素敵な洗練された空間でゆったりと上品に贅沢にいただくお食事、誕生日のイヴェントとしては満足でした。

中庭を望む広々とした円形のダイニングルーム

アペリティフのおつまみ      サーモンと大根と貝のアミューズ

鶉の卵のポシェ 鶉肉とトリュフ添え   帆立貝のポワレとイカ墨のカネロニ

平目のグリル フォアグラのカリカリ添え  鳩のステーキ トリュフと2色のビーツ添え

りんごのデザート           ショコラのデザート      

食後のコーヒーは隣のバー・ラウンジでいただいた